2019年12月31日火曜日

12月31日 当館からの女峰山の眺め

暖かい年の暮れを迎えています。
不思議なことに、この気温のなか、風花が舞っています。上空はやはり寒いままなのかもしれません。旧日光市街地より標高が高い場所は、それほどこの高い気温の影響を受けてないように見受けます。


29日の当館から女峰山の山並みの眺め。











そして今日、31日の眺め。山中はあまり雪が溶けていないようです。


29日、30日あたり、奥日光から下りてくる車は、屋根に雪を載せたままでした。

31日現在、二社一寺周辺までは路面にまったく雪はありません。ノーマルタイヤで、もちろん問題ありません。




2019年12月23日月曜日

1月3日は外山毘沙門天の縁日です。

寄る年始を前に、日光に根付く、日光ならではの正月行事をご紹介します。日光駅など門前町より女峰山の方面を眺めると、二社一寺の東寄りに小さく突き出た山が見えます。それが外山(とやま)です。登山口のあるふもとまで、当館や二社一寺から、歩いても15分程度です。

この頂上には小さな毘沙門堂があり、1月3日に縁日が開かれます。お坊さんたちが待つそのお堂では、祈祷札、火除、金運祈願などのお守りの授与が行われるほか、福銭貸しという独自の習俗が続いています。

この福銭貸しというのは、お堂で100円を借りたら(100万両と表現しているようです)、そのご利益を頂戴して商売を繁昌させ、翌年同日に倍額200円を奉納して返すという習わしです。もともとは、この貸し借りを繰り返してどんどん倍額にしていく、というのをどこかで読んだか聞いたのですが、これまた確かな記述を見つけるに及ばず。

そもそも外山の毘沙門天は、日光開山と同時期に始まった瀧尾神社の鎮護のために置かれたものだそうです(『日光史』星野理一郎著)。毘沙門天は天台宗において本尊を守る位置付けであり、日光で天台修験が盛んに行なわれた時代にはその役割もあったかと思われます。さらに毘沙門天は商売や勝負の神様として崇められる面もあることから、福銭のような習慣も生まれたのでしょう。

また、『日光山志』という江戸末期にまとめられた地誌には、外山は将軍が日光へ参詣する際の遠望台でもあり、当時は宇都宮、壬生まで眺めることができたと書かれています。

現代では、地元の幼稚園の遠足地になっていたり、中高生はマラソン登山したりというような親しまれ方をしています。

お参りするうえで、ひとつ注意点があります。登山口から暗い林内に入るとすぐ、鳥居を数個くぐることになります。その意識のままお堂へお参りしてしまうと、つい柏手をうつことになります。ところが、ここは現在、日光山内二社一寺のうち輪王寺のものとなっていて、参詣するみなさんは仏式でお祈りしています。神仏習合の面影を強く残し、これも古い歴史を感じさせる一面です。

ふもとからは普通に歩いて片道1時間弱です。親子連れや、杖を使ってゆっくり上るご年配の方などの姿も見受けます。しかし、頂上付近は岩場で、手すりを伝って上り下りするようなところもあります。ある年は残雪が凍ってつるつるの場所もありました。途中、落ち葉が積もって滑りやすいところもあります。靴はしっかりしたものがいいでしょう。

多くの参拝客で混雑する二社一寺とは別に、地域に根ざした信仰を経験する初詣も趣きがあります。いかがでしょうか。



お堂の横からさらに奥へ進むと、大黒天や毘沙門天の素朴な石像が祀られる本来の頂上に至ります。その北側は眺望が開かれ、女峰山から大真名子山、男体山の山並みが眼前に迫ります。






2019年12月17日火曜日

日光の北野神社

受験シーズンを前に、日光の願掛けスポットを紹介します。

二社一寺ではなく、瀧尾神社のある滝尾道に向かいます。開山堂を過ぎると左手に鳥居があり、その奥の崖の下に、学問の神、菅原道真が祀られている北野神社があります。

新しく設えられた灯籠の裏面に、この神社の由緒が詳しく書かれていました。

「亀戸天神の創建者である大鳥居信幽が霊夢によって全国に天満宮二十五社を建立する願いを立て・・・」とあります。




亀戸天神の由緒を調べてみると、縁起は菅原大鳥居信祐となっています。「しんゆう」という読みはいっしょですが、「ゆう」の字が違います。しかし、たしかに日光にも来ていて、その後に亀戸にたどり着いた旨が書いてあるので、同一人物なのでしょう。

大鳥居というのは神職の呼び名なのかと調べてみると、ひとつの姓で、菅原道真の末裔家とのこと。そのため、亀戸天神のほうでは菅原姓も併記しているようです。

北野神社にはもうひとつ、立て札に解説が掲げられていて、そこには「寛文元年(一六六一)筑紫安楽寺の大鳥居信幽が勧請したものである」と書かれています。

筑紫安楽寺とはどんなところなのか、気になります。調べてみると、神仏習合時代の太宰府天満宮にあった寺でした。大鳥居家は廃仏毀釈の前まで太宰府天満宮の宮司家だったそうです。

つまり、太宰府天満宮の神官だった信幽(祐)が亀戸天神とともに開いた神社ということになります。

ということは霊力あらたかと言えるでしょう。

さて、滝尾道の北野神社の先に、手掛石という大岩があります。解説の立て札には「滝尾神社の女神、田心姫命(たごりひめのみこと)が、お手を掛けた」とあり、名前の由来はそこにありますが、そのあとに「北野神社に詣でた帰りにこの石に手を掛けて祈願すると、字が上達する」と続いています。

先日、『日光の故実と伝説』(星野理一郎著)を読んでいて、この神社の部分も目を通していました。それが頭に残っていて、この立て札を見たとき、違うことが書いてあることに気づきました。

同著には、「手掛け石を小さくかき、家に持ち帰ると、学問と字が上達する」と書かれているのです。

実際、砕いた痕はあるのでしょうか。ぐるりと確認してみますが、楔を打ち付けたような痕はありません。(写真上:道路側 下:滝尾道側)


じつは、周辺を歩いて、表現の違いやその意味が、なんとなく類推できました。

理由のひとつして、時代とともにお参りの仕方が変化したということも考えられます。






境内のようすを少々。

鳥居や御神体の岩には天満宮の梅紋が刻まれています。









天満宮、天神には牛の像が奉納される習わしがあり、ここでも祠を静かに守っています。

2019年12月15日日曜日

こたつ出しました。

当旅館のチェックアウトは10時なのですが、ぎりぎりまで部屋でぬくぬくと 過ごされる方が多くなりました。

朝はやはり冷え込みますが、日光のまちは山の南側に開けていて、風がなければ、みなさん思われるほど寒くはありません。

それと、日がのぼってから、ゆっくり出ていくのがおすすめ。この時期は二社一寺の参拝客も少なく、静かに見て回るにはもってこいなんです。そんな、旅慣れたお客さまも多いようです。





2019年12月13日金曜日

中ソネの観音様と日光円蔵

先日、ネットを徘徊していたところ、や○ざの番付なるものの画像を目にしました。


 上段左に国定忠治が名を連ねています。お、ということは、日光円蔵もいるのか?と、列を目で追っていくと、その下の段にやはり載っています。(画像が表示されていない場合、リンクをクリックしてください)

日光円蔵とは、国定忠治の軍師を務めた博徒です。日光の宇都宮寄りにいまもある板橋というところの出身とされているようです。

円蔵といえば、確か、鳴虫山に連なる山中にある小さな岩窟のなかで、隠れて博打をうっていたというようなことをどこかで聞いたような読んだような。

その場所がここです。鉢石町の裏手から鳴虫山に登っていく途中、少しコースを外れた場所にあります。この尾根は中ソネと呼ばれ、祀られている観世音菩薩は、中ソネの観音様と呼ばれています。登山のガイドブックなどでは岩屋観音などとも称されているようです。



壁面がすす汚れており、『日光の故実と伝説』(星野理一郎著)という本のなかで、これは日光奉行所の役人や警察の目が届かないことをいいことに、博徒や泥棒が隠れ家にして火を焚いた痕であると書かれています。ここを円蔵も隠れ家にした、というようなことを聞いたか読んだ気がしていたのですが、同著にはその記述がありませんでした。

はて。もう少し資料をあさってみます。『日光修験 三峯五禅頂の道』(池田正夫著)のなかにもこの場所についての記述を見つけました。鳴虫山一帯は修験の修行のために開かれた山道の一部だったことがあり、この観音様の洞窟も、道場のひとつに挙げられています。大永七年(1527年)に行なわれた修行の記録にすでにこの地が登場しますが、観音様(観世音菩薩像)には承応四年奉納というと刻銘が残っているようです(承応四年は1655年)。

聖なる場所で博打などとバチが当たりそうですが、『日光の故実と伝説』では、観世音菩薩のお慈悲の恵みを求める悲願もあったのだろうとしています。岩窟は北東向きの斜面にあり、実際は寒くてそれどころではないようにも思います。

円蔵について、その記述を拾い出すことはできませんでしたが、『日光の故実と伝説』では、そもそも、「お婆さんたちが春秋のいい季節にこの洞窟の写真なかでお念仏やご詠歌をやるところになっていた」と 記しています。

尾根道からの分岐にはこんな標石が残されています。

『日光修験 三峯五禅頂の道』によると「右なきむし山」、「左かんおん堂 女講中」 と読むとのことです。ここまでふもとから歩いて1時間ほどです。講中と記されているあたり、やはり修行僧だけでなく、地元の庶民にも親しまれていた観音様だったのでしょう。

いまは植林地の薄暗い林の奥に鎮座しますが、そのあたりを抜ければ、今やアカヤシオの名所として名高い鳴虫山頂上に至ります。






2019年12月5日木曜日

12月5日 日光連山に雪

隣町まで出かけしな、日光連山を振り返ってみると、雪雲に覆われ、山頂から尾根筋にかけて白く積もっているようにも見えます。

道の駅塩谷より日光連山を望む。











ただし、日光市街地から二社一寺世界遺産エリアまでなんら雪の影響は無し。気温もそれほど低くありません。山に近づいていくと風花が舞っているようです。

2019年12月4日水曜日

二社一寺と瀧尾神社の石垣観察

紅葉の混雑シーズンも、ひと段落。
朝霜に光る境内のようすなど見たいかも、と思い立って、二社一寺世界遺産エリアをぶらついてきました。

朝八時半。東照宮参道は、小学生の団体しかいません。いまの時期の平日はだいたいこのようなもの。

しかし、気温が高くて、霜が降りていませんでした。orz












むしろ、柔らかな日差しを浴びて、石垣などいい雰囲気です。
ふだんあまり気にして眺めることもなかったのですが、よく見ると幾何学模様にきっちりと組み合わせられています。重さ自体相当なものであり、よくもまあ人力だけでこれほどのものを組み上げたものです。

そういえば、東照宮の大鳥居は、江戸城などの石垣普請にも当たった黒田長政による奉納です。また、城郭建設に重用された藤堂高虎が東照宮の縄張を行い、その部下を石垣工事に当たらせたそうです。

そういった優れた技が活かされたのでしょう。

東照宮の南には、造営時に職人が住んだことにちなんで、匠町という地名が残されています。それらのうち、石匠の技が地元に根付き、いろは坂の石垣などに生かされていると聞いたこともあります。もともとあるいろは坂は現在の下り線で、この石垣は、匠の技によって、その後に新設された上りのそれよりも強固にできているという見方もあるとのことでした。


そんなことをふと思い出して、石垣に注目してぶらつくことにしました。


これは、二荒山神社の裏手から、北側の瀧尾神社へ続く坂の石垣。手積み感があります。ここは修行に使われた道でもあるので、小僧などが駆り出されて造営したのかも、などと勝手に想像してみたりします。






坂の頂上に、役小角を祀る行者堂があります。その前の石垣は、低い位置で途切れていて、上からその積まれ方を見ることができます。

つまり、できるだけ平らな面を前に向けて重ねていっていることがわかります。













坂を降りていくと、石畳になります。これもおそらく、平らな面を上にして並べたのでしょう。しかし、積み上げる必要もないので、とりあえず平らな面があればいい石を使ったと思います。












坂を下ると、瀧尾の道といわれる参道です。道の縁には排水するための溝が設けられていますが、ここも石垣を並べる手法が用いられています。よく見ると、金具(楔)を打ち込んで割って平面をつくった石も混じっています(向かって左列)。












瀧尾神社の鳥居です。丸い穴めがけて3回、石を投げ、通すことができると幸運に恵まれるとのこと。周囲に誰もいなかったので、こんなときは挑戦し放題かもしれません(←おい)。












瀧尾神社の本殿を囲む玉垣(石柵)の下面が目に入ったので覗き込んでみると、上部の石のほう、石柱をはめる部分は浅く削ってあり、しかも、ずれることを見込んで若干の遊びもできています。写真ではわかりにくいかもしれないので気になるかたはご自身の目でお確かめください。




ちょっと話が脱線しますが、東照宮鎮座前の、修験道の盛んな時代は、瀧尾神社側にも僧坊があったようで、室町時代に訪れた連歌師の紀行文には五百坊を見渡すと記されています。
参道から稲荷川方面を見下ろします。この方面でしょうか。いまや跡形もありません。








瀧尾の道を戻っていきます。ふもとへと降りていくと、路肩の石垣は素朴なものに変わります。このへんも、修行僧や駆り出された庶民らによる手積みの印象がします。













参道沿いの大きな杉に挟まれた岩は、もとはといえば、石垣の石だったのかもしれません。














東照宮が背にしている小山を挟んだ反対側の、仏岩というところによってみます。

いまは、梵天、不動明王などの古い時代の信仰をしのばせる像が並んでいますが、そもそもは頭上の岸壁に、仏の姿をした岩があったため仏岩と名付けたとのこと。例えば矢印のあたりなども、見ようによってはなにかのレリーフに見えなくもありません。











その付近に崩れ落ちていた岩です。おそらくこういう岩を運び出して石垣に用いたのでしょう。ほかに、女峰山の山麓の林に入っていくと、楔を打ち込んで割ろうとした跡が残る大岩を見かけることがあります。

岩石の鋭角の面は、大雑把に言うと火山活動によって噴出した溶岩が急に冷やされてできる、と習ったような。石垣がたくさん造れたのも、女峰山や男体山のおかげのようです。






仏岩には日光開山の祖、勝道上人の墓があります。

その石垣を眺めていてびっくり。楔を打ち付けた跡が残る石を使っています。この角にふさわしい石を探すのは、それはそれでたいへんだったのかもしれません。














さらに二社一寺方面へと下っていきます。

ここは養源院という僧坊があった場所付近です。途中で石垣の組み方が変わっています。奥のほうが江戸時代初期に建てられた院のあった場所。東照宮の石垣に似て、きれいにきっちりと重ね合わせられています。手前の石垣の感じは、きょう歩いて見てきた石垣からすると、それよりも前に組まれたもの、あるいは、職人筋ではない人によるものと推測できます。


最後は、長坂(ながさか)という、二社一寺参道入口付近の石垣。

角の直線とそれに向かう面のアールの美しさと言ったらもう。

二社一寺を文字通り縁の下から支えてきた匠の技を感じて歩いた一日でした。いや、一日もかかりません。一周してだいたい2時間です。




最後に、神橋前のモミジがまだ紅葉を残していたので撮影しておきました。

ここは日当たりがよく温かいので、もみじもまだ秋と勘違いしているようです。